(1824-1886/フランス)
フランスの南仏マルセイユの画家。ゴッホより30歳ほど年上の画家である。ゴッホはテオを頼りフランスのパリに来たとき初めてモンティセリの絵画を見て非常に感銘を受けた。その心酔ぶりは、ゴッホの遺した手紙がそれが読み取れる。特にモンティセリの絵の具を幾重にも重ねる『厚塗り』を模倣した。ゴッホの厚塗りの原点はモンティセリにあると言っても過言ではない。また南仏アルルに移住したのも南仏の画家モンティセリに憧憬を持っていたためとも言われる。
(1798-1863/フランス)
印象派が台頭する以前のロマン主義の画家。それまで神格化した宗教画を描く新古典主義の画家たちが台頭していたが、ドラクロワの登場によって印象派やバルビゾン派、写実主義といった絵画技法の自由を促した。代表作は『民衆を導く自由の女神』。
ゴッホの手紙の中でもドラクロワはたびたび登場。パリで見たドラクロワの絵画を、自分と弟テオに当てはめながら述懐している。
(1814-1875/フランス)
バルビゾン派の巨匠の一人。バルビゾン派とは産業革命で急激に都市化するパリを離れ、自然が残るバルビゾン村に移り自然を描いた画家たちのこと。ゴッホは聖職者を目指していたこともあり、聖書中に出てくる大地に根付く農夫こそが神聖なものだと考えた。その姿を生き生きとして描き出すバルビゾン派の画家、特にミレーには大きな私淑を抱いていたようだ。パリを離れてからも、テオにミレーの絵画の写真をたびたび送ってもらい模写している。
(1838-1888/オランダ)
自然や農民を描く写実主義、オランダハーグ派の中心的存在(詳しくはこちら)。ゴッホはマウフェと親戚関係にあたり1年ほどマウフェに指示をした。初期の暗色を用いた農民画家はマウフェの影響に寄るところが大きい。しかし、ゴッホが娼婦と関係を持ったことから、マウフェとの仲は急速に悪化する。しかし、1888年(アルル滞在時)テオからマウフェが亡くなったことを聞かされると、マウフェを想い左記のモモの絵を描き、左下にサインと共に「マウフェの追憶」と記した。
(1848-1903/フランス)
言わずと知れた、ゴッホの耳切り事件を引き起こした張本人。ゴッホはパリでゴーギャンと知り合いその才能にはずっと一目をおいていた。そしてアルルで画家の共同体を目指して発信したとき、それに同調したのはゴーギャン一人であった(そのゴーギャン自身も弟テオが自分の絵を高く売ってくれたことから断りにくかったと言われている)。
ゴッホは同居前も中も後もゴーギャンの才能を高く評価していた。二人の天性の才能がぶつかり合ったことは残念と言うほかない。
ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T
ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」